全てが現実である/エッセイ





【 全てが現実である/エッセイ 】



これは、あくまでも私だけの考え方であるということを前置きしたい。

全てが現実である。

近頃は全てが現実であると言いながら、現実から逃げるための文章を書く人が増えている。

文章、いわば、私がいうのは詩作品という世界のことである。

哀しいことだが、現実に立ち向かうことが出来ず、現実逃避する場所として詩作品の世界に身を投ずることが増えていることである。

現実の中に一人、そうして現実という世界の映し鏡が創り上げた幻想に一人の人物がいる。

それらは全てが現実であるはずなのに、現実が困難になると、現実という世界に二人の人物像を創り上げては、現実に立ち向かうことが出来ず、結果として逃げ込むための場所を創り上げてしまう。

もはや、現実が現実でなくなる。

名前が二つある。
名前の分だけ、別人の人間を創り上げては、その名前が、さも生ある人間としての人物像にされる。

本名と、別な名前。
しかし、あくまでも名前はひとつしかないのである。

別な名前は、いわば、ペンネームというものであり、それ以上でもなければ、それ以下でもない。

もともとペンネームは仕事としての機能をするためのものであり、生ある人物にはならない。

ましてや、現実という世界で苦しくなり、別に創り上げた世界に逃げ込むための場所として【 詩作品 】の世界があるとしたら、哀しいことだ。

現実という世界から逃げたところで、現実は背中合わせにあり、ほんのいっとき逃げ込むだけでしかない。
あとあと、苦しさは倍増する。

正直なところ、現実に立ち向かうことが出来なくなった人間の多さには驚くことがある。

私は生まれつき波乱万丈な人生を過ごして、まあ、今の年齢である。

【 一応、年齢その他は伏せさせていただくけれども、近しい人間以外は詳細を書かないことにしているため、御容赦いただきたい。】

【 まあ、波乱万丈の人生であったため、近しい人間以外は詳細は知られたくないというのが、私である。】

だから正直なところ、人間が現実逃避する場所として詩作品の世界があることに、少し哀しみを覚える。

私は【 詩作品 】の世界を愛しているのである。

私が好きな詩は、人間の匂いが伝わる詩作品なのである。

はっきりと言ってしまえば、正直なところ、幻想ポエム作品は好きではない。

幻想ポエム作品には、全く興味がない。

以前は幻想ポエム作品のような詩作品を書いていた、若かりし頃があったのだが、いつしか書かなくなった。

あの幻想ポエム作品は人間の匂いがせず、言葉の中に機械的な匂いがしていまい、不思議な感覚にとらわれてしまったからである。

幻想の中に身を置き、現実という世界から、いっとき離れ生きる人間の哀しさは理解できるのだが、現実から逃げ込むための場所に、詩作品の世界がされるのは、とても哀しさを感じる。

名前が二つあるのは、ペンネームというだけの話だ。
生ある人物像が二人いるわけがない。

それは、現実で生きることが苦しく困難になり、いっとき離れたいという人間の願望だろう。

私は、生まれつき天涯孤独である。
両親、兄弟姉妹はもとより、親戚やらの全てが一切いない。

こういうと、小さな子供の頃は、きっと誰かの手助けがあって生きてきたのだろう言われるかもしれないが、残念ながら、私は生まれつき独りであり、幼少期から食べ物すら自分で探さなければならず、辺りの草だろうが、山の木の実であろうが、あたりかまわず食べるのが習慣だった。

それは、生き抜くためだ。
この命という、私自身が生き抜くためには、食べ物などにこだわっていることなど出来ない。

ましてや、私には住むための家などはなかった。
つまり、草むらで寝るのが家そのものであり、家すらなく暖かな布団などあるわけがない。

四季折々、冬は川の水で体を洗い、または雪を体に擦り付けて洗う、つまり誰の助けすらなかったのが当たり前の生活であった。

山に食べ物が全くない冬は、死ぬ寸前であったのが、常とした。

それが、私の生きてきた人生である。
夢などを見て、現実逃避などをしていたら、私は死んでしまっただろう。

生まれつきの幼少期から、世の中は厳しいものだという意識だけがあった。

私が波乱万丈の人生だというと、大抵は私に近寄る人達に向かって言われたものだ。

『 波乱万丈な人生の、そういう人間は狡賢さがあるから気をつけたほうがいい、だから近寄らないほうがいい 』と、陰口を言われたものだが、私は世の中を狡賢く生きるつもりはないし、そういう生き方はしたくもない。

また、そういう狡賢い生き方をしてはこなかったと。

道は真っ直ぐのほうが気持ちがいいではないか、人生もまた、どうせなら己の信じたままに、ひたすら真っ直ぐに生きることほうが気持ちがいい。

あとあと、後悔する人生だけはしたくない。
いずれ人間は死ぬのだ。
その時になって、後悔するような最期は迎えたくないというのが、私の考え方である。

現実逃避したい気持ちは理解できるのだが、私の愛する詩作品の世界が、現実逃避するための場所や、現実から逃げ込むための場所にされてしまうのが、すごく哀しいのである。

私はただ、悲しくて悲しくてしかたがないのだ。
私の愛する詩作品の世界が、現実から逃げ込むための世界にされてしまうことが悲しい。
それだけである。

だから現実逃避する場所として、幻想ポエム作品を描くことを、決して否定しているわけではない。

これは、あくまでも私自身の考え方であることを、最後にもう一度、書き記しておきたいと思う。

考え方は、人それぞれであるから。
これは、あくまでも、私の波乱万丈の人生においての考え方であることを。

また最後に、これだけは言いたい。

私は【 詩作品の世界 】を愛しているのだということを。

詩作品の世界を、深く深く愛しているのだということを。

【 詩人/鏡乃 琴禰 】
《 かがみの・ことね 》





■【 Ameba ブログ 】■

水琴窟【 詩集 】
作者【 詩人/鏡乃 琴禰 】
《 かがみの・ことね 》















【 水の琴 】鏡乃 琴禰

【 水の琴 】詩集とエッセイ 【 詩人/鏡乃 琴禰 】 《 かがみの・ことね 》

0コメント

  • 1000 / 1000